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『わたしの外国語学習法』 ロンブ カトー [ホールド]

わたしの外国語学習法 (ちくま学芸文庫)




『わたしの外国語学習法』は多言語学習のための本である。

が、これは千野栄一の『外国語上達法』と同様の感じがある。

よって読書が好きな人は読んでも良いが特におススメの本というわけではない。


もちろん、16ヵ国語を身に付けたというのは素晴らしいことだ。筆者は語学を専門とする生業の人であり、通訳者、翻訳者とか、それに近い人なら読んでもよいのかもしれない。


やはりお奨めは、『世界中の言語を楽しく学ぶ』や『語学で身を立てる』だ。前者はサラリーマンであり、後者は、形容が難しいが、ビジネス思考のある多言語学習指導者だ。

この『わたしの外国語学習法』で有益な方法を探そうとするがたくさんありすぎてどれが役立つのか分からなくなるほどの本である。何かを本書から探そうとするなら読む必要はなく、ただ語学学習に時間を費やすべきだ。



 わたしたちが外国語を学習するのは、外国語こそが、たとえ下手に身につけても決して無駄に終わらぬ唯一のものだからです。

このようにアマチュア肯定論者である。梅棹忠夫は、アマチュア肯定論はともかく、彼の本を読む限りでは、こういう語学の態度には否定的になるのだろう。



それより興味深いのは、ロンブ・カトーと選択した語学と当時の歴史的状況だ。また、この本はちくま学芸文庫に入っているが、訳者は創樹社とバトっていたようで、本書の版権を貴社から引き揚げると。そう、二〇〇〇年一月、文庫版訳者あとがきに書かれている。59〜64年在プラハ・ソビエト学校に学ぶ。東京外国語大学ロシア語科卒業。東京大学大学院露語露文学修士課程修了。こちらは訳者だ。



著者訳者共に、大学大学院を出たものの金銭的に苦労している時期に通訳翻訳の仕事にであっている。

ロンブ・カトーの方は嗅覚があったようで経済危機の時代1930年代に始めた英語、勝者の予感のしたロシア語をものにしていった。そして一九四五年二月初め、市会議事堂が解放され、その当日から、ロンブ・カトーはロシア語通訳としてそこへ乗り込んだ。スプートニク・ショックの反動からも離れていた舛添要一はフランス語を選択した。

一方訳者の米原万里は、舛添要一と歳は近いが、毎日喰う金にも困っていたのだ、と書いている。生まれてはじめての単行本の翻訳は信じられないほど大量の時間を奪い、辞書や百科事典などを購入するための分不相応な出費をわたしに課した、米原はという。彼女のいうあの頃とは何時のことか。

本書は一九八一年九月二〇日、創樹社より刊行された。


わたしの外国語学習法


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『外国語上達法』 千野栄一 [ホールド]

外国語上達法 (岩波新書 黄版 329)






『外国語上達法』というタイトルで期待して購入すると後悔するかも知れない本だ。


というのも当たり前のことしか書かれていないように見える。学問に王道無しの典型的な本だ。

これを読みのなら、『語学で身を立てる』や『世界中の言語を楽しく学ぶ』を奨める。

以下は読む必要はないし、この本も、もし何かを期待しているのであれば、多分外れるであろう本だ。






語彙と文法

こう書かれると、なんだ全部やらなければいけないのか、と思う。



ただし、語彙も必要なものと不必要なものがある。

まず千の単語を覚える、と書かれている。一方、インドの蛇の名前を覚えても、という箇所もある。

結局自分にあったものを探し出していくしか無い。



と、このようなことが沢山書かれた箴言集っぽいもので、簡にして要を得るという言葉が当て嵌まる本だ。



1986年1月20日第一刷となっている。

この時期はそろそろ英語が他の言語より力を付けて行きつつある時期だ。

20ページに、一つ選ぶなら英語、と書かれている。

時代は、英会話学校ブーム、バブル景気、そしてITバブルと続く。

外国語上達法



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舛添要一の6カ国語勉強法 [ホールド]

舛添要一の6カ国語勉強法―体験に裏づけられた上達への近道






内容はオーソドックスなものだ。

そして、語学のために読む必要は特に無い。



全部で4章ある目次を翻訳すると以下のようになる。

1.外国語学習歴 6か国語
2.推奨する勉強法 9つ
3.避けるべき勉強法 7つ
4.隠し技


というように、幾つも幾つもあり盛り沢山だ。



舛添要一の6カ国語は、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、スペイン語、イタリア語で、旅行でロシア語学習で習得した文字から類推したギリシア語がある。



第一外国語が英語、第二第三でフランスドイツ

そして大学時代にロシア語スペイン語

ヨーロッパでイタリア語

旅先でロシア語で習ったキリル文字が少しだけ役立った現代ギリシア語の順番だ。

ギリシア語については、旅先で良く分からなかったがロシア語を習っていたおかげで読むことは読めたので文字を習うということは良いことだといったような話だった。

今現在は知らないが仕事で使えるのは英語とフランス語のようだ。

仕事、彼のプロフェッショナルの領域である国際政治についてである。

旅先でも役に立つという意味では色々かじっているようで、そのような学び方には肯定的であり、梅棹忠夫とは逆である。誰だったか、語学は中途半端でもいいものの一つであるという人がいた。




使えるレベルのものもあれば、知っていて少しだけ役立つ、得をするという両方のものが入り交じっている本だ。





東大の教養課程では、英語が第1外国語として必修、そして第2外国語として、フランス語、ドイツ語、ロシア語、中国語、この四つのなかから一つを選ばなければならない。

当時はソ連の科学技術がけっこう高く買われていたので、理科系の学生のなかにはロシア語をとる人もけっこういたが、文科系ではあまり品機がなかった。中国語は、なにしろあの時代だから、習いたいという人はそう多くない。そんなわけで、フランス語とドイツ語に学生が集中してしまのである。

ということで、舛添要一の第2外国語と第3外国語は決まって行った。



当時はソ連の科学技術がけっこう高く買われていた、という箇所があるが、舛添の先輩である野口悠紀雄が『スプートニクの落とし子たち 理工系エリートの栄光と挫折』に出て来る。今野浩の著書である。今野と野口は1940年生まれで、舛添は1948年生まれ。スプートニク・ショックは、1957年。
1950年代末から60年代と、そういった空気があったということか。


更に、謎のイワン先生の登場である。

50ページから、イワン先生に習ったロシア語、として彼のロシア語学習が書かれている。大学とは直接関係のない語学であり、ロシア語と前後してアルゼンチンから来た女の先生から受けたスペイン語を習っている。大学の講義で英語とフランス語とドイツ語をやり、一方ではロシア語とスペイン語を婦負ティヴの先生から個人的に習っていた。舛添の評価するのは前者であり、その理由は文法だ。




大学生活も後半にさしかかったころと思うが、キャンパスの掲示板に「ロシア語の生徒募集」という内容の貼り紙があるのをみつけた。ロシア語は高校時代に一度やりかけて中断したことは先に述べたが、それを見てもう一度挑戦してみるかという気になった。

大学の教室を使ってやっているのだが、先生はどいういうわけか、大学とは何の関係もないロシア人で、名前はイワン・スタルノフスキー。本人が言うには、ノボスチ通信とかいう当時のソ連の通信社の特派員とのことだが、実際のところは正体不明で、どういうルートで大学の教室の許可をとったのかも、今もって分からない。


上記の様に書かれているが、本当に正体不明だったのかは分からない。舛添が高校2年生ぐらいの時にロシア語を独学でやり始めたのは、小説を読むのが好きで受験勉強の合間にトルストイを読んでいたからだ。

小説→ロシア語であり、科学技術→ロシア語、ではなかったということだ。

そんなソ連も正面から戦わずして崩壊してしまったのだが、今度はどうも米国の様子がおかしい。どちらも経済が問題のようだ。

舛添要一は、国際政治学+フランス語だ。英語は、第1章のBBCのインタビューということで普通にできるようだ。ただ、今はこのような組み合わせを活かしているかどうかは知らない。


多言語国家スイス、20カ国語ができて当然の研究所という見出しがある。

ヨーロッパ人の多言語話者を観察したことがある人は分かると思うが、どの言語を話していても調子が一本槍の人がいる。言語が近いために楽をした結果だ。特にイントネーションは自国語流となりやすい。だから観察していて母語・母国語が何かを推量する楽しみにはなる。財務省に務めていた元妻の英語が受験英語の発音だと言っていた人がいるがヨーロッパ人も発音は発音で学ばなければ同じである。ということで、海外ではとかヨーロッパではという毎度お馴染みの崇拝宣伝文句には踊らされないことだ。この辺は一つずつキッチリと片付けるしかないだろう。



筆者は、1989年6月28日に辞表を提出し大学助教授の身分を捨てた。

大学助教授からフリーランスの国際政治学者となったのだ。

当時はバブル経済真っ盛りである。

芸は身を助けるということで語学が心の支えの一つとなった。
フランス語の翻訳や通訳をやって食っていくぐらいのことはできる。
そういう筆者に対して批判は確かに出ているようだ。
片手間でやられたら困るといったものだ。
語学屋の領域だからだろう。





推奨する学習スタイルとしていくつかある。

第2章、こうすればきっとうまくなる!成功する9つの秘訣、の一つ、「ダラダラやるより一気に集中」の項で、1日の中での集中とある期間集中してやることを推奨している。

1日に勉強する時間は、せいぜい1時間程度


 大事なことは、とにかく基礎の段階は集中して勉強し、最初の半年のうちに「発音」と「文法」を終わらせてしまうことだ。






避けるべき学習スタイルとして、君はだまされていないか?という第3章で、文法の重要性などを説いている。

受験英語は役に立つや「文法」をあなどるな、といったものがあるが、この部分は『語学で身を立てる』の方がより詳しく役に立つだろう。

実は日本の学校で習う英語も捨てたものではないよ派とかやっぱり基本に戻って学校で習った文法からおさらい派のいうことは良いことを言っているように聞こえるが、分かっていて仕方なく代用するのならいいのだが、英語が外国語の基本のような一種の洗脳のようなものになっている状態から抜け出せていない。

問題は、文法は重要ですはいいのだが、どこで習う文法かだろう。




第4章に、語学のスイッチを切り替えるの項がある。

多言語ということで、筆者は学習する時期をずらすと言っている。つまり同時並行でいくつもやらないということだ。更に、別のレベルで発想が各言語で違うのでその切り替えが必要だという。ただし殆どは単語レベルになっている。


6カ国語勉強法のあとがきは、1996年12月24日となっている。

舛添要一の6カ国語勉強法


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『私の外国語』 梅棹忠夫 どこの旗の出身か [ホールド]






『私の外国語』は、大正生まれの梅棹忠夫と永井道雄の編集によるものだ。

本書は1970年発行ということで当時の状況も反映されている。現在のように海外の情報の流通が多くない時代に書かれた書だ。

買って読む必要がある語学本かといえば必要ないと答える。

梅棹忠夫を知りたいとか、人類学民俗学に興味があるとか、京都学派であるとか、読書が趣味とかいう人以外必要ないのでは無いかと思う。

梅棹忠夫と語学の立ち位置は、語学教師でなく、語学専門家でもなく、仕事に語学を使う人間というものだ。つまり海外赴任のサラリーマンのようなものだ。ただし態度として大きく違うところがある。


編者でもある梅棹忠夫は、実用としての語学を追求する人物で使う場から離れてしまえば忘れても構わないという考えを持っている。タイトルとして「生活と文化のなかの外国語<モンゴル語など>」となっていることからも窺える。


梅棹忠夫によれば、彼の習得した言語は京都語だけだという。

モンゴル語を体得する時期に蒙古自治邦の首都ということになっていた張家口市の西北科学研究所に入る。所長は今西錦司、次長は石田英一郎だった。乾燥アジアの学術研究の一大中心であった。そこは漢人居住地帯でありモンゴル人はさらに外長城線をこえてはるか北方の、ステップ地帯に住んでいる。そしてモンゴル人の中で生活をすることになった。目的は、馬に乗ることとモンゴル語を習得することだった。

一ヵ月して両方とも出来るようになって来たという。

外国語を習得するための、一番の早道は、「自分自身を窮地に追い込む」、これが彼の考えだ。また外国語を習得するには、現地で、現地人から習うべし、というのが、梅棹の考え方だ。

何も知らない人間に、現地で、短期間に、集中的に叩き込むのが、一番効果が上がるのではないか、と述べている。

梅棹がビルマに居た頃の話で、大変ビルマ語が上手いという評判の日本人について、あるビルマ人が批評していった言葉を、彼は思い出す。
「あの人はずいぶんビルマ語の本を勉強したらしい。あの人は文語を喋る。」


さて、梅棹は習得して来たという言葉よりも関係して来たと書く。

必要がなくなれば忘れてしまっても構わないという。一度モノにした外国語を、一生保持してゆこうなどと考えると、大変なことになる、というのがその理由だ。錆び付かせないために、非常なエネルギーと時間を必要とするからだ。


フィールドワーク系の人は、忘れても構わないという考えの人がいる。目的は言語習得ではないからか。梅棹の文章には、コツというものは書かれていない。何々するなということだけだ。彼のモンゴルの場合なら日本語を使うな、中国語を使うなといったものだ。モンゴル人の相手が日本語が理解できたり、中間の言語として中国語を介したりといったことをするなという。また、他の話で、現地の言語を使えという。英語やフランス語を使うのは言語的大国主義と非難している。



梅棹は、モンゴルには前後一年半ほどいた。終わりの頃には、モンゴル語にもかなり慣れて、一応の用は足りるようになった、という。あるモンゴル人の老人が、しばらく話をしているうちに、「あなたはどこの旗の出身か」とたずねてくれたときには、正直のところ、うれしかった、と述べている。

旗というのは、モンゴルの行政単位である。老人は、梅棹を、どこかのモンゴル人だと思っていたのだ。これは梅棹の考えであるが。この瞬間が嬉しかったのだろう。ただし冷静に考えると、あなたはある特定の旗だろうと指摘されるのと、どこの旗かと訊ねられるのとでは少し違う。梅棹に対しては何もないが、そういうことだ。実際に似たような経験をした人間ならこの感覚は分かるだろう。この時のモンゴル語はもしかしたら梅棹のいう京都語と日本語のようなものだったのか。あるいはその老人は違和感を感じず、本気でモンゴル人だと思ったのかもしれないが今となっては不明だ。



語学屋は梅棹の飛び込んで覚えろという部分は受入れられても、そこから離れたらきれいさっぱり忘れても良いという考えには賛成できない向きも多いだろう。この辺に職業の違いが出て来るのかもしれない。


梅棹忠夫といえば、ローマ字論者という側面もある。漢字廃止論族ローマ字派である。実はこれまでに梅棹の文章を引用しているが平仮名を漢字に変えて書いているところがある。漢字廃止論者だからなのか理由は分からないが平仮名が意外と多かった。ローマ字論者梅棹だが、これも文字をどうするかという語学の側面から見ていると何故梅棹がローマ字論者なのかを見失う。実際のところは不明であり、突然ローマ字論者になったわけでもないが、フィールドワーカーであったからというのも理由になりそうだ。ローマ字が入って来る前なら漢字廃止論者に留まっていたのかも知れない。仮名以前なら万葉仮名、更にはお経を漢字で書くという手法もあった。もう一つの理由として考えられるものにエスペラントがある。時間軸としてこれらがどう影響したのかは分からない。漢字仮名混じり文という外国人からすると奇妙な体系を使用しているのだが、もしかしたらこれが日本語にとっては最適なのかもしれない。話し言葉の中に既に書き言葉が入り込んでいる。ここで文字(漢字)を想起してしまうのが日本語だ。伝統とか昔の文献を読めるようにとかいう現状維持派に欠けている視点がそれである。




鬼 怒鳴門というキラキラネームのような名前を付けたドナルド・キーンがいう日本語の難しさは、改めて考えると実は日本人にとっても難しい。難しいという言葉には当然言語系統が別で難しいと冒頭で書かれているが、彼の世界は一般の日本人も普段意識しないことである。言ってみれば別世界を見ており、それで難しいと言っているのだ。



松田道雄のロシア語学習状況は当時の歴史が現れている。昭和7年(1932年)からロシア語を習い始めた。


山田晶はラテン語について書かれているが、教えることによって上達するという。最近流行のアウトプットのことだ。

アウトプットといえば、このブログもアウトプットになるのかも知れないが、外国語の上達には役に立たないであろう。



著者一覧(目次よりそのまま抜粋)

梅棹忠夫
飯田善国
池田健太郎
石井米雄
梅棹忠夫
大森実
小田実
加藤秀俊
木下是雄
國弘正雄
斉藤孝
高橋徹
竹内実
辻静雄
ドナルド・キーン
永井道雄
堀越孝一
増田義郎
松田道雄
山田晶
湯浅叡子
永井道雄

私の外国語 中公新書


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