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旅行英会話 聴覚刺激で英語は必ず聴き取れる 速聴 [ホールド]

旅行英会話 聴覚刺激で英語は必ず聴き取れる




この本は英語を速聴でトレーニングする本である。この速聴はネイティヴスピーカーの標準の早さを標準スピードとして、その2倍速、4倍速で聞くというものだ。

この本は過度の期待は禁物だという意味で特に必要ないではないかと思う。





構成としては、Scene1からScene10まであり、その中で各シーンの同じ内容を、ネイティブスピード、2倍速、4倍速の3段階で話されている。


効果があるのかないのかははっきりしなかった。これを使った後に世界が変わったような感覚を得られるのでは無いかと思える題名だが、実際のところそうはならない。取り敢えず英語が喋れる人間に取ってどれほど役に立つかは分からない。

テクノロジーを使ったものには、周波数に着目した『人間はみな語学の天才である』がある。これは速度調整によるアプローチだ。



ただし、この手法が無効であるというわけではない。使い方の問題もあるからだ。

リスニングが苦手、まだ英語が上手くない、久しぶりに英語を使う、といった人には役に立つのかもしれないが、ある程度話せるという人間には不要だと思われる。より良くというのは分かるがその効果が目に見えてとはならないかもしれないからだ。



この速聴自体は役に立たないわけではない。使う人によっては効果があると考えられる。速読によって速い球が見えるようになる(、また体が反応できるようになる)という効果があるようだ。『だから速読できへんねん!』という本だ。速読にも幾つかの流派があるようだが、これは速読以外の効果をアピールしたものだ。見ている対象物のスピードが以前よりもゆっくりと感じられるということだ。できれば受けてみたいが、だからといってプロ並みに打球を飛ばせるわけではないだろう。体の他の部位も使い、それなりに鍛えなければならないからだ。




旅行英会話 聴覚刺激で英語は必ず聴き取れる』は「聴き取れる」と言い、「話せる」とは言っていない。耳を鍛えたからといって口がうまく動くわけではない。また、「必ず」というのは、この本の内容に限っては、4倍速、2倍速、と下げて行き改めてネイティブスピードを聞くと、聞き取りが楽になっているということだろう。これに関しては間違ってはいない。このコンテンツの聴き取りは確かに楽になる。

それが、一般の会話、仕事での会話に即座に反映するかというと、残念ながらそうはならない。そのコンテンツと量を調整すべきだろう。



タイトルの中に、「聴覚」という言葉があるからか、「聴き取れる」となっているが、「聞き取れる」の方が近いのではないか。変化したり省略された音が「聴き取れる」ならよいが、この場合は以前よりもスピードが落ちた感じがして聞くのが楽になるという意味だからだ。音を聴き取るということであれば、『ボトムアップ式 映画英語のリスニング 新装版―NewYork Detective Story』が良いだろう。こちらはボトムアップの方法であり、一音一音聴き取れるかどうか確認していく、それこそシラミつぶしに作業するようなもので根気がいる。


目次
Scene1 出発―飛行機内
Scene2 到着初日―空港にて
Scene3 滞在1日目―ホテルにて
Scene4 滞在2日目―観光
Scene5 滞在3日目―移動 L.A.からサンフランシスコへ
Scene6 滞在4日目―食事
Scene7 滞在5日目―買い物
Scene8 滞在最終日―帰国に向けて
Scene9 トラブル発生
Scene10 旅の実務





まとめると、アイディアとしては良いが、過度の期待は禁物であり、それを理解した上で手にすべき語学本だ。

⇒ 『旅行英会話 聴覚刺激で英語は必ず聴き取れる


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人間はみな語学の天才である 周波数 [ホールド]




この本は「周波数」に関する語学本である。

語学上達のためということでは特に購入する必要の無い本である。



著者は1920年の生まれで、本書の初版は1993年だ。訳者はトマティス研究会となっている。

目次

序章 
第一章 聞こえない耳
第二章 人間の土地、バベル
第三章 さあ、言語をめざせ!
第四章 言語は文法のみにあらず
第五章 言語の四つのカギ
第六章 ポリグロットになるには
第七章 子供と外国語学習
第八章 成人と外国語学習
バベルの塔の再発見
付録 聴覚言語学的同化の諸法則


*本邦訳版の編集にあたっては、オリジナル版の第四章の全部と第五章の一部をカットいたしました。





周波数と語学の関係は少し前に流行ったようだが、実際のところ本書176ページにはこのような記述がある。

 私は一九五二年以降、本書の付録にあげた諸法則を立証し、その応用をはかるために「聞き方」、そしてその結果としての「話し方」を変えることのできる装置を開発することに全力を傾けた。


ということで、日本では新しく聞こえるこの研究はかなり古くからあるということだ。



この本は言うまでもなくこの方式を使った学校の宣伝のための本であるが、その実際の教材の効果以前に本書の説明はどうも擬似科学のような印象を受ける。

著者はパリ大学医学部卒の人間である。だからといって全てが科学的とは限らない。

良くあるのが、お医者さんがすすめる健康法だ。正反対の方法が書店で平気で並べられているのだ。つまり医者が書けば科学的でも無ければ整合性があるわけでもない。

どうもこの本の説明だと地理的要因が言語に多大な影響を及ぼしているようだ。読んでいるともっともらしく聞こえてしまう。




27ページにはこう書かれている。
聞き取れない音は、例外なく声にだしていうこともできないからである。

つまり、聞き取れれば、声に出して言うことができる、とは限らないとも言える。

本書の中で、聴き取りと発音/発声の関連がどうもはっきりしなかった。聴き取れれば喉が舌が自動的に動くようになるわけではなかろう。少なくとも別の筋肉であり、聞き流せば喋れるとか英語のシャワーを浴びれば喋れるようになるなどのように感じる。大人ならば言語学的知識や発音トレーニングなり矯正ができる。こういったものがなければ喃語の期間も存在する理由が無くなるのではないか。聞くと発音するは別と考えた方が良いだろう。




面白そうなテーマが詰まっている本で言語学に興味がある人は読んでいて楽しめるかも知れないが特にこれといって取り入れるべきものはない。

外国語学習は周波数がキーとなると思うならば試してみるのもいいかもしれない。

人間はみな語学の天才である



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40ヵ国語習得法 [ホールド]

40ヵ国語習得法―私はこうしてマスターした (ブルーバックス)





40ヵ国語習得法は、講談社から1994年に発行された全18章からなる語学本である。

この本は語学本収集の目的以外では読む必要のない本である。



ブルーバックスは1963年9月の野間省一による発刊のことばにあるように科学の本である。学者、学生、産業人、セールスマン、ジャーナリスト、主婦と並べられており、文章も時代を感じさせるものがある。

 二十世紀最大の特色は、それが科学時代であるということです。科学は日に日に進歩を続け、止まるところを知りません。ひと昔前の夢物語もどんどん現実化しており、今やわれわれの生活のすべてが、科学によってゆり動かされているといっても過言ではないでしょう。  そのような背景を考えれば、学者や学生はもちろん、産業人も、セールスマンも、ジャーナリストも、家庭の主婦も、みんなが科学を知らなければ、時代の流れに逆らうことになるでしょう。


この『40ヵ国語習得法』は、趣味・ゲーム・実用(Ⅰ)に収められている。ブルーバックスも拡張を続け科学技術以外の分野にも手を出している。

さて、1963年は、1957年のスプートニク・ショック後でもっと科学技術に力を注ぐべしといった時代ある。舛添要一の6カ国語勉強法で触れた理工系の話である『スプートニクの落とし子たち 理工系エリートの栄光と挫折』の今野と野口は1940年生まれで、著者は1943年生まれだ。



著者は外大英文科と北大理類を受験し北大に進学、後に医学部に編入した。ここで医者と英語を選択したことになっている。

医学部卒業後、神奈川の座間米陸軍病院でインターンを経験し1969年渡米しニューヨーク医科大学で眼科専門の研修を受けた。1974年に同市内で眼科医院を開業している。

受験時は迷った英文科か理系かという選択も、学生時代に決めた英語も医学もで計画通りにいったということで優秀な人物である。


ピーター・フランクルは、大学で数学の講義ができる程度の言語は11ヶ国語というが、この著者はそれに相当することを書いていない。つまり専門分野で使える外国語は英語だけの可能性が高い。それ以外の外国語は著者の経験として本書で色々と触れられている。



また、いわゆるヨーロッパ人とマルチリンガルの関係については、こう言っている。

 ヨーロッパは地続きで狭いので、ヨーロッパ人は何ヵ国語も話せるというのはうそである。空港、ホテルでは数カ国語を話せる人がかなりいるが、一歩田舎に入ると、外国語は1つも話せない人たちがかなりいる。医者でも、世界中飛びまわっている有名な学者たちはかなり外国語を話すが、英語が主な共通語になっている国際学会で秘書に代弁してもらって発表するという医者もいる。


分かっている人に取っては当たり前のことだが、国内で妄想を膨らませたり海外にあっても自分で現実をねじ曲げてしまう人たちがいる。こういった普通のことをしっかりと書いてあるのはありがたい。



137ページに40ヵ国語の説明がある。

 これから紹介するのは、これまで私が学んできた40ヵ国語である。




タイトルには、習得法とあるが、実際には習得したのかどうかは不明である。習った、齧ったのは多くあるが数と程度はそれほど明確ではないようだ。また40ヶ国語の40という数字について考えてみた。参考文献にそのヒントらしきものがあった。

『20ヶ国語ペラペラ』種田輝豊著、実業之日本社、1969


40ヵ国語習得法





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ピーター流外国語習得術 [ホールド]

ピーター流外国語習得術 (岩波ジュニア新書)




数学者であり大道芸人でもあるピーター・フランクルという優秀な人間が書いた本である。

結論から言うと語学学習に関してはしっかりしたことが書いてあり読む必要は特に無い。



この本は岩波ジュニア新書の一つである。名前の通り若い人に向けられて作られたシリーズであり、発足に際してというのを見ると一九七九年六月となっている。この本だけは10代以外の購買者が多いのかも知れない。そんな1999年に出版された語学本である。


岩波書店、若者向け、ピーター・フランクルという個性的な人間、これらが合わさった書物なので読みにくいと感じる箇所はあるだろし矛盾点も見つかる。国際人とか愛国主義だとか洗脳だとかいうキーワードが出て来るがこれを10代の人間に読ませて良いのかと逆に心配になる。ある程度分かって来ると本書の矛盾点も指摘できるようになりこの本自体洗脳ではないかと訝しく思うのである。また旧東欧諸国がEUに接近するようになった辺りの東欧人の感覚や情報のアップデートは無い。実際に話すと分かるのだが彼らと筆者の感覚は違う。筆者自身洗脳されているかもしれないと思えるようになる。そういった読みにくいところがゴツゴツとある本だ。



さて、この本の中で特に良かったことを見つけるとすると、対訳本の使用が挙げられる。

対訳によって意味を取っていくという方法だ。有名な物語ならば様々な言語で使えるということになる。ただし、その場合、学習しようとする言語の文章は簡略化されたものである可能性もあるので注意は必要だ。



著者は10ヶ国語以上を使えるようだが、大学で数学の講義ができる程度の言語は11ヶ国語で、話せる言語は12ヶ国語であると書いている。大学で数学の講義ができる程度、と筆者が表現しているがこの表現方法が語学学習者にとっては実は曲者だ。もちろん彼の語学のことを言っているのではない。このことは別の機会で触れると思うがどうも錯覚させられるものだ。

本書のはじめにで書いてある順に並べると、ハンガリー語、英語、ドイツ語、スウェーデン語、フランス語、スペイン語、ロシア語、ポーランド語、日本語、韓国・朝鮮語、中国語の計11ヶ国語がそれである。

これらにインドネシア語が話せる言葉として加わるので十二か国語になる。

実際は少しでもかじった言葉や片言のもの類推がきくのもあるだろう。




ハンガリー人の語学学習本といえば、『わたしの外国語学習法』がある。

同じように、強国に挟まれた国としてドイツ語、ロシア語を学ぶ運命にあった。

ロンブ カトーの場合は、解放下でロシア語が使えたため以降その力を発揮するようになった。一方フランクルはドイツ語で語学学習のコツをつかんだ。ドイツ語、ロシア語、スウェーデン語と学び、その次のフランス語で海外行きの切符をつかんだ。フランス留学だ。

第1章の後ろの方で52ページの「語学習特のコツをまとめると」では、短期間はいま勉強している言語に集中するということ、と言っている。他にもいくつかコツが書かれている。複数の言語というと同時並行でという人がいるが筆者はそれは奨めていない。

後ろの方で、ヨーロッパの言語に関してはスラブ系、ラテン系、ゲルマン系のそれぞれの言語を一つ習得しておくと後で比較的やさしく入っていけると書いてある。ある程度できるようになれば同じグループの言語の習得は比較的楽だというものだ。これもよくある話なので特に取り上げる必要も無いかもしれない。ただ、同時並行で行うとどちらかというと益よりも害が多いかもしれない。




あとがきの194ページで、いろいろな趣味のなかでも外国語は二流でもいいのです、と書いている。これは、ロンブ・カトーがいう「わたしたちが外国語を学習するのは、外国語こそが、たとえ下手に身につけても決して無駄に終わらぬ唯一のものだからです。」と通ずるところがある。

ピーター流外国語習得術


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『わたしの外国語学習法』 ロンブ カトー [ホールド]

わたしの外国語学習法 (ちくま学芸文庫)




『わたしの外国語学習法』は多言語学習のための本である。

が、これは千野栄一の『外国語上達法』と同様の感じがある。

よって読書が好きな人は読んでも良いが特におススメの本というわけではない。


もちろん、16ヵ国語を身に付けたというのは素晴らしいことだ。筆者は語学を専門とする生業の人であり、通訳者、翻訳者とか、それに近い人なら読んでもよいのかもしれない。


やはりお奨めは、『世界中の言語を楽しく学ぶ』や『語学で身を立てる』だ。前者はサラリーマンであり、後者は、形容が難しいが、ビジネス思考のある多言語学習指導者だ。

この『わたしの外国語学習法』で有益な方法を探そうとするがたくさんありすぎてどれが役立つのか分からなくなるほどの本である。何かを本書から探そうとするなら読む必要はなく、ただ語学学習に時間を費やすべきだ。



 わたしたちが外国語を学習するのは、外国語こそが、たとえ下手に身につけても決して無駄に終わらぬ唯一のものだからです。

このようにアマチュア肯定論者である。梅棹忠夫は、アマチュア肯定論はともかく、彼の本を読む限りでは、こういう語学の態度には否定的になるのだろう。



それより興味深いのは、ロンブ・カトーと選択した語学と当時の歴史的状況だ。また、この本はちくま学芸文庫に入っているが、訳者は創樹社とバトっていたようで、本書の版権を貴社から引き揚げると。そう、二〇〇〇年一月、文庫版訳者あとがきに書かれている。59〜64年在プラハ・ソビエト学校に学ぶ。東京外国語大学ロシア語科卒業。東京大学大学院露語露文学修士課程修了。こちらは訳者だ。



著者訳者共に、大学大学院を出たものの金銭的に苦労している時期に通訳翻訳の仕事にであっている。

ロンブ・カトーの方は嗅覚があったようで経済危機の時代1930年代に始めた英語、勝者の予感のしたロシア語をものにしていった。そして一九四五年二月初め、市会議事堂が解放され、その当日から、ロンブ・カトーはロシア語通訳としてそこへ乗り込んだ。スプートニク・ショックの反動からも離れていた舛添要一はフランス語を選択した。

一方訳者の米原万里は、舛添要一と歳は近いが、毎日喰う金にも困っていたのだ、と書いている。生まれてはじめての単行本の翻訳は信じられないほど大量の時間を奪い、辞書や百科事典などを購入するための分不相応な出費をわたしに課した、米原はという。彼女のいうあの頃とは何時のことか。

本書は一九八一年九月二〇日、創樹社より刊行された。


わたしの外国語学習法


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『外国語上達法』 千野栄一 [ホールド]

外国語上達法 (岩波新書 黄版 329)






『外国語上達法』というタイトルで期待して購入すると後悔するかも知れない本だ。


というのも当たり前のことしか書かれていないように見える。学問に王道無しの典型的な本だ。

これを読みのなら、『語学で身を立てる』や『世界中の言語を楽しく学ぶ』を奨める。

以下は読む必要はないし、この本も、もし何かを期待しているのであれば、多分外れるであろう本だ。






語彙と文法

こう書かれると、なんだ全部やらなければいけないのか、と思う。



ただし、語彙も必要なものと不必要なものがある。

まず千の単語を覚える、と書かれている。一方、インドの蛇の名前を覚えても、という箇所もある。

結局自分にあったものを探し出していくしか無い。



と、このようなことが沢山書かれた箴言集っぽいもので、簡にして要を得るという言葉が当て嵌まる本だ。



1986年1月20日第一刷となっている。

この時期はそろそろ英語が他の言語より力を付けて行きつつある時期だ。

20ページに、一つ選ぶなら英語、と書かれている。

時代は、英会話学校ブーム、バブル景気、そしてITバブルと続く。

外国語上達法



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舛添要一の6カ国語勉強法 [ホールド]

舛添要一の6カ国語勉強法―体験に裏づけられた上達への近道






内容はオーソドックスなものだ。

そして、語学のために読む必要は特に無い。



全部で4章ある目次を翻訳すると以下のようになる。

1.外国語学習歴 6か国語
2.推奨する勉強法 9つ
3.避けるべき勉強法 7つ
4.隠し技


というように、幾つも幾つもあり盛り沢山だ。



舛添要一の6カ国語は、英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、スペイン語、イタリア語で、旅行でロシア語学習で習得した文字から類推したギリシア語がある。



第一外国語が英語、第二第三でフランスドイツ

そして大学時代にロシア語スペイン語

ヨーロッパでイタリア語

旅先でロシア語で習ったキリル文字が少しだけ役立った現代ギリシア語の順番だ。

ギリシア語については、旅先で良く分からなかったがロシア語を習っていたおかげで読むことは読めたので文字を習うということは良いことだといったような話だった。

今現在は知らないが仕事で使えるのは英語とフランス語のようだ。

仕事、彼のプロフェッショナルの領域である国際政治についてである。

旅先でも役に立つという意味では色々かじっているようで、そのような学び方には肯定的であり、梅棹忠夫とは逆である。誰だったか、語学は中途半端でもいいものの一つであるという人がいた。




使えるレベルのものもあれば、知っていて少しだけ役立つ、得をするという両方のものが入り交じっている本だ。





東大の教養課程では、英語が第1外国語として必修、そして第2外国語として、フランス語、ドイツ語、ロシア語、中国語、この四つのなかから一つを選ばなければならない。

当時はソ連の科学技術がけっこう高く買われていたので、理科系の学生のなかにはロシア語をとる人もけっこういたが、文科系ではあまり品機がなかった。中国語は、なにしろあの時代だから、習いたいという人はそう多くない。そんなわけで、フランス語とドイツ語に学生が集中してしまのである。

ということで、舛添要一の第2外国語と第3外国語は決まって行った。



当時はソ連の科学技術がけっこう高く買われていた、という箇所があるが、舛添の先輩である野口悠紀雄が『スプートニクの落とし子たち 理工系エリートの栄光と挫折』に出て来る。今野浩の著書である。今野と野口は1940年生まれで、舛添は1948年生まれ。スプートニク・ショックは、1957年。
1950年代末から60年代と、そういった空気があったということか。


更に、謎のイワン先生の登場である。

50ページから、イワン先生に習ったロシア語、として彼のロシア語学習が書かれている。大学とは直接関係のない語学であり、ロシア語と前後してアルゼンチンから来た女の先生から受けたスペイン語を習っている。大学の講義で英語とフランス語とドイツ語をやり、一方ではロシア語とスペイン語を婦負ティヴの先生から個人的に習っていた。舛添の評価するのは前者であり、その理由は文法だ。




大学生活も後半にさしかかったころと思うが、キャンパスの掲示板に「ロシア語の生徒募集」という内容の貼り紙があるのをみつけた。ロシア語は高校時代に一度やりかけて中断したことは先に述べたが、それを見てもう一度挑戦してみるかという気になった。

大学の教室を使ってやっているのだが、先生はどいういうわけか、大学とは何の関係もないロシア人で、名前はイワン・スタルノフスキー。本人が言うには、ノボスチ通信とかいう当時のソ連の通信社の特派員とのことだが、実際のところは正体不明で、どういうルートで大学の教室の許可をとったのかも、今もって分からない。


上記の様に書かれているが、本当に正体不明だったのかは分からない。舛添が高校2年生ぐらいの時にロシア語を独学でやり始めたのは、小説を読むのが好きで受験勉強の合間にトルストイを読んでいたからだ。

小説→ロシア語であり、科学技術→ロシア語、ではなかったということだ。

そんなソ連も正面から戦わずして崩壊してしまったのだが、今度はどうも米国の様子がおかしい。どちらも経済が問題のようだ。

舛添要一は、国際政治学+フランス語だ。英語は、第1章のBBCのインタビューということで普通にできるようだ。ただ、今はこのような組み合わせを活かしているかどうかは知らない。


多言語国家スイス、20カ国語ができて当然の研究所という見出しがある。

ヨーロッパ人の多言語話者を観察したことがある人は分かると思うが、どの言語を話していても調子が一本槍の人がいる。言語が近いために楽をした結果だ。特にイントネーションは自国語流となりやすい。だから観察していて母語・母国語が何かを推量する楽しみにはなる。財務省に務めていた元妻の英語が受験英語の発音だと言っていた人がいるがヨーロッパ人も発音は発音で学ばなければ同じである。ということで、海外ではとかヨーロッパではという毎度お馴染みの崇拝宣伝文句には踊らされないことだ。この辺は一つずつキッチリと片付けるしかないだろう。



筆者は、1989年6月28日に辞表を提出し大学助教授の身分を捨てた。

大学助教授からフリーランスの国際政治学者となったのだ。

当時はバブル経済真っ盛りである。

芸は身を助けるということで語学が心の支えの一つとなった。
フランス語の翻訳や通訳をやって食っていくぐらいのことはできる。
そういう筆者に対して批判は確かに出ているようだ。
片手間でやられたら困るといったものだ。
語学屋の領域だからだろう。





推奨する学習スタイルとしていくつかある。

第2章、こうすればきっとうまくなる!成功する9つの秘訣、の一つ、「ダラダラやるより一気に集中」の項で、1日の中での集中とある期間集中してやることを推奨している。

1日に勉強する時間は、せいぜい1時間程度


 大事なことは、とにかく基礎の段階は集中して勉強し、最初の半年のうちに「発音」と「文法」を終わらせてしまうことだ。






避けるべき学習スタイルとして、君はだまされていないか?という第3章で、文法の重要性などを説いている。

受験英語は役に立つや「文法」をあなどるな、といったものがあるが、この部分は『語学で身を立てる』の方がより詳しく役に立つだろう。

実は日本の学校で習う英語も捨てたものではないよ派とかやっぱり基本に戻って学校で習った文法からおさらい派のいうことは良いことを言っているように聞こえるが、分かっていて仕方なく代用するのならいいのだが、英語が外国語の基本のような一種の洗脳のようなものになっている状態から抜け出せていない。

問題は、文法は重要ですはいいのだが、どこで習う文法かだろう。




第4章に、語学のスイッチを切り替えるの項がある。

多言語ということで、筆者は学習する時期をずらすと言っている。つまり同時並行でいくつもやらないということだ。更に、別のレベルで発想が各言語で違うのでその切り替えが必要だという。ただし殆どは単語レベルになっている。


6カ国語勉強法のあとがきは、1996年12月24日となっている。

舛添要一の6カ国語勉強法


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『世界中の言語を楽しく学ぶ』 共通文法カテゴリーと耳通し [バイ]

世界中の言語を楽しく学ぶ (新潮新書)






ただの民間のサラリーマンが書いた語学本、というわけではない。

言語学科卒業という履歴を持ち、仕事も語学とは全く関係ないというわけでは無く、校閲者という言葉に敏感な立場の人間だ。

語学教師でもなく、職業としての語学の専門家でもなく、サラリーマンが必要として語学をやっているのでもなく、かといって趣味だけでもないという微妙な立ち位置にいる。趣味のものを敢えて実用にする必要は無いかもしれないが、校閲者でなくても筆者なら仮に別の職業であっても語学を上手く仕事に活かしたのではないかと思える。



『世界中の言語を楽しく学ぶ』というタイトルから分かるように、多言語学習のヒントが詰まった本である。そしてこれは読んだ方が良い語学本でもある。

全6章ある。




多言語学習者に対するこの本の最大の贈り物となるものは「共通文法カテゴリー」だろう。

本書の82ページでは、忘れてもそれを見ればすぐに思い出すにはということで、それには「文法の共通語」を作って、各言語の文法をそれに翻訳して行くというものだ。

162ページにはその「共通文法カテゴリー」の具体例が出ている。これは筆者なりのものであり、個人個人で違って来る物だ。

忘れても、可能な限り早く思い出す、と同時に新しい言語の概要を見て行く場合にも使えるものだ。

共通文法カテゴリーは筆者の使う術語のようなものであり、そのようなものが存在しているわけでもなく、ヨーロッパ言語の文法を改変したようなものと取る向きもあるかもしれないが、これは方便であり実用を旨としたものだ。これ以上は長くなるので説明はしないが、学習者自身が学びやすくするためのものとして提示しており、見本も見せている。後は自分で作り上げるのみだ。




「共通文法カテゴリー」とあるように、文法のことを書いているので音声は軽視しているかというとさにあらず。「耳通し」と筆者が名付けているものがある。78ページでは、学習した言語の音や基本的表現を耳と頭に染み込ませる訓練、と定義している。




また、コラムとして様々な言語に言及している。

その他細かいテクニックが満載となっている。東京の通勤電車という狭い空間の中で磨かれたテクニックがコンパクトな新書に詰まっている。



この本は多言語学習に興味がある人にはおススメの本である。

世界中の言語を楽しく学ぶ


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『私の外国語』 梅棹忠夫 どこの旗の出身か [ホールド]






『私の外国語』は、大正生まれの梅棹忠夫と永井道雄の編集によるものだ。

本書は1970年発行ということで当時の状況も反映されている。現在のように海外の情報の流通が多くない時代に書かれた書だ。

買って読む必要がある語学本かといえば必要ないと答える。

梅棹忠夫を知りたいとか、人類学民俗学に興味があるとか、京都学派であるとか、読書が趣味とかいう人以外必要ないのでは無いかと思う。

梅棹忠夫と語学の立ち位置は、語学教師でなく、語学専門家でもなく、仕事に語学を使う人間というものだ。つまり海外赴任のサラリーマンのようなものだ。ただし態度として大きく違うところがある。


編者でもある梅棹忠夫は、実用としての語学を追求する人物で使う場から離れてしまえば忘れても構わないという考えを持っている。タイトルとして「生活と文化のなかの外国語<モンゴル語など>」となっていることからも窺える。


梅棹忠夫によれば、彼の習得した言語は京都語だけだという。

モンゴル語を体得する時期に蒙古自治邦の首都ということになっていた張家口市の西北科学研究所に入る。所長は今西錦司、次長は石田英一郎だった。乾燥アジアの学術研究の一大中心であった。そこは漢人居住地帯でありモンゴル人はさらに外長城線をこえてはるか北方の、ステップ地帯に住んでいる。そしてモンゴル人の中で生活をすることになった。目的は、馬に乗ることとモンゴル語を習得することだった。

一ヵ月して両方とも出来るようになって来たという。

外国語を習得するための、一番の早道は、「自分自身を窮地に追い込む」、これが彼の考えだ。また外国語を習得するには、現地で、現地人から習うべし、というのが、梅棹の考え方だ。

何も知らない人間に、現地で、短期間に、集中的に叩き込むのが、一番効果が上がるのではないか、と述べている。

梅棹がビルマに居た頃の話で、大変ビルマ語が上手いという評判の日本人について、あるビルマ人が批評していった言葉を、彼は思い出す。
「あの人はずいぶんビルマ語の本を勉強したらしい。あの人は文語を喋る。」


さて、梅棹は習得して来たという言葉よりも関係して来たと書く。

必要がなくなれば忘れてしまっても構わないという。一度モノにした外国語を、一生保持してゆこうなどと考えると、大変なことになる、というのがその理由だ。錆び付かせないために、非常なエネルギーと時間を必要とするからだ。


フィールドワーク系の人は、忘れても構わないという考えの人がいる。目的は言語習得ではないからか。梅棹の文章には、コツというものは書かれていない。何々するなということだけだ。彼のモンゴルの場合なら日本語を使うな、中国語を使うなといったものだ。モンゴル人の相手が日本語が理解できたり、中間の言語として中国語を介したりといったことをするなという。また、他の話で、現地の言語を使えという。英語やフランス語を使うのは言語的大国主義と非難している。



梅棹は、モンゴルには前後一年半ほどいた。終わりの頃には、モンゴル語にもかなり慣れて、一応の用は足りるようになった、という。あるモンゴル人の老人が、しばらく話をしているうちに、「あなたはどこの旗の出身か」とたずねてくれたときには、正直のところ、うれしかった、と述べている。

旗というのは、モンゴルの行政単位である。老人は、梅棹を、どこかのモンゴル人だと思っていたのだ。これは梅棹の考えであるが。この瞬間が嬉しかったのだろう。ただし冷静に考えると、あなたはある特定の旗だろうと指摘されるのと、どこの旗かと訊ねられるのとでは少し違う。梅棹に対しては何もないが、そういうことだ。実際に似たような経験をした人間ならこの感覚は分かるだろう。この時のモンゴル語はもしかしたら梅棹のいう京都語と日本語のようなものだったのか。あるいはその老人は違和感を感じず、本気でモンゴル人だと思ったのかもしれないが今となっては不明だ。



語学屋は梅棹の飛び込んで覚えろという部分は受入れられても、そこから離れたらきれいさっぱり忘れても良いという考えには賛成できない向きも多いだろう。この辺に職業の違いが出て来るのかもしれない。


梅棹忠夫といえば、ローマ字論者という側面もある。漢字廃止論族ローマ字派である。実はこれまでに梅棹の文章を引用しているが平仮名を漢字に変えて書いているところがある。漢字廃止論者だからなのか理由は分からないが平仮名が意外と多かった。ローマ字論者梅棹だが、これも文字をどうするかという語学の側面から見ていると何故梅棹がローマ字論者なのかを見失う。実際のところは不明であり、突然ローマ字論者になったわけでもないが、フィールドワーカーであったからというのも理由になりそうだ。ローマ字が入って来る前なら漢字廃止論者に留まっていたのかも知れない。仮名以前なら万葉仮名、更にはお経を漢字で書くという手法もあった。もう一つの理由として考えられるものにエスペラントがある。時間軸としてこれらがどう影響したのかは分からない。漢字仮名混じり文という外国人からすると奇妙な体系を使用しているのだが、もしかしたらこれが日本語にとっては最適なのかもしれない。話し言葉の中に既に書き言葉が入り込んでいる。ここで文字(漢字)を想起してしまうのが日本語だ。伝統とか昔の文献を読めるようにとかいう現状維持派に欠けている視点がそれである。




鬼 怒鳴門というキラキラネームのような名前を付けたドナルド・キーンがいう日本語の難しさは、改めて考えると実は日本人にとっても難しい。難しいという言葉には当然言語系統が別で難しいと冒頭で書かれているが、彼の世界は一般の日本人も普段意識しないことである。言ってみれば別世界を見ており、それで難しいと言っているのだ。



松田道雄のロシア語学習状況は当時の歴史が現れている。昭和7年(1932年)からロシア語を習い始めた。


山田晶はラテン語について書かれているが、教えることによって上達するという。最近流行のアウトプットのことだ。

アウトプットといえば、このブログもアウトプットになるのかも知れないが、外国語の上達には役に立たないであろう。



著者一覧(目次よりそのまま抜粋)

梅棹忠夫
飯田善国
池田健太郎
石井米雄
梅棹忠夫
大森実
小田実
加藤秀俊
木下是雄
國弘正雄
斉藤孝
高橋徹
竹内実
辻静雄
ドナルド・キーン
永井道雄
堀越孝一
増田義郎
松田道雄
山田晶
湯浅叡子
永井道雄

私の外国語 中公新書


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『語学で身を立てる』 ビジネスとしての語学、一つの欧州言語としての英語 [バイ]

語学で身を立てる (集英社新書)






この本を読むと英語学習では実は学校では文法がしっかり教えられていないのではという疑念が湧き起こる。文法ばかりでは駄目だもっと会話練習を、というのは間違いということになる。会話練習以前に文法が果たして適切に教えられていたのかということだ。また、いつの間にか英語が外国語としての基本であるとの観念が植え付けられていたのに気づく。


又英語が言語の基本であるかのように振る舞うネイティブの語学講師=英語の講師に遭遇する理由も同じであろう。それは日本だけの現象ではなく世界的なもののようだ。英語はあくまでもヨーロッパの言語の一種でありその中ではどちらかといえば特殊な言語である。そういう認識が必要だ。


よって英語が言語、外国語の基本という強調された或はうっすらと植え付けられた観念からの離脱と同時に、基本に帰って昔学校で習った英文法をもう一度見直しましょうということの危険性も分かる。英語は外国語の基本、学校で習った英文法は英語やその他の外国語を習う際の文法の基本という偏見をそぎ落とす。米国の変調がありながらも英語の使用は増加しているという時期にもう一度見直すには良い本だ。



この『語学で身を立てる』の著者は、一見個性が強いようで実際のところ言語の研究に関しては時流に流されない論を展開している。一方、ビジネスとしての語学はこれとは反対である。というのも著者自身が経営者であるので説得力もある。それも一般対象ではなく専門家育成のためのコンテンツがある機関といった趣である。本書は2003年出版ということで時流といった部分に多少の変化はあるかもしれない。ただし長期的なスパンでのカテゴリ分けになっているため今現在流行っている言語について書かれた雑誌系とは趣を異にする。



語学の専門家としてであって、自分の仕事でのスキルに加えて語学というようなものではない。ただし語学講師がおススメする勉強法といったものではなくビジネスの観点からそして英語中心でないところから書かれているので役に立つ部分はある。



ということで、この本はおススメです。

語学で身を立てる



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